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10の□乗(じょう) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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WEB科学絵本 はじめに ![]() このサイトは、子供たちのために作りました。 チャールズ&レイ・イームズ著『POWER OF TEN』とその映像・ かこさとし著『おおきなおおきなせかい』 『ちいさなちいさなせかい』を参考にしています。 1mの世界から10倍ずつ拡大して宇宙のはてまでトリップします。 絵や写真の大きさはできる限り忠実に表現しました。 すでに天下を自分の物にした豊臣秀吉は、商人で家来の曽呂利新佐衛門と将棋をしていた。功績に報い秀吉は新佐衛門にほうびを取らせる事にし、何がほしいかを尋ねた。 新佐衛門は「米粒をいただきたい。今日はひと粒、あすはふた粒、明後日は四粒と、ちょうどこの将棋の盤のマス目分の81日間だけいただければ幸いです。」 秀吉は、大笑いをして新佐衛門の欲の無さを喜んで、ごきげんで承諾した。 ところがあとから秀吉は家来に計算させて驚いた。 1+2+22+23+・・・・・・+280= 2417851439229258349412351粒ほしいというのだ。 これは、お茶碗1杯3000粒あるとして、日本国民全員が1億年はたべることができるお米の量であった。こうした数遊び・数にまつわる話は、日本では古くからあり、民衆の間で楽しまれていたようだ。ところで新佐衛門の米粒の数は、どのようによめばいいのだろう。 |
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| 古代中国では、黄帝が数を十等つくったといわれ、億、兆、京、垓、抒、穣、溝、澗、正、載という十の数詞があった。このうち「載」がいちばん大きい古代中国の数の表数で、そこで数は終りであるという意味をこめて、「載」のつぎに「極」という字を加えて数詞にした。「極」とは「極める」とか「果て」のことで、数の終りを意味していたのである。 その後の中国の数学は、仏教から伝わった数えかたにインドのサンスクリット数詞が加わって豊富になり、明代に広まった『算法統宗』(1593年)を手本として、17世紀に吉田光由によって、『塵劫記』のはじめの章で、大きな数の呼び名(数詞)として書きしるされることになる。 「十/百/千/万/億/兆/京/垓/抒/穰/溝/澗/正/載/極/恒河沙/阿僧祗/那由他/不可思議/無量大数」がそれである。 「恒河沙(こうがしゃ)」というのは恒河の沙、つまり「ガンジス河の砂」という意味で、砂は数の多いのたとえとして昔から使われている。アルキメデスが、皇帝から「お前は学者だから、砂の数も数えられるであろう」といわれたという故事もあるくらいである。 「阿僧祗(あそうぎ)」とは、サンスクリットの数詞「アサンキヤ」を漢語訳したもので、「那由他(なゆた)」も同じ「ナユタ」の漢訳語である。「不可思議(ふかしぎ)」というのもサンスクリット語の「アチンティア」から来たもので、「思い測ることができないほど多い」という意味である。 「無量(むりょう)」と「大数(たいすう)」は昔は別々の数詞であったが、現在では一つの数詞となっている。 ところで新佐衛門の米粒の数をこの数詞に従って読めば、 2抒4178垓5143京9229兆2583億4941万2351 粒 ということになる。 「千載一遇(せんさいいちぐう)のチャンスを逃した」などという言葉がよく使われる。日本的な数えかたからすると、「千載」がもっとも大きい数だということで生れた言葉であるが、文字通りに解釈して計算すると、10の47乗分の一の確率、つまり1000兆の1000兆倍を1000兆倍してさらに100倍した回数のうちの一回という確率になる。 仏教説話のなかにも、盲目の亀が百年に一ぺん浮上して、大海に浮ぶ一本の丸太の穴に偶然首を突っこむほどの、滅多にない機会であるとしるされている。 |
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| 『塵劫記(じんこうき)』の「塵」とは、ちりのことで「きわめて小さい」という意味であることはわかりますが、「劫」とはなんでしょうか。 囲碁に「劫」というルールがある。一目を双方が交互に取り返せる局面のとき、その一目を取れば断然碁勢が有利になる場合でも、相手がその一目をとった直後は取り返すことができず、一ぺん別のところへ石を打ってからでなければ取り返せない。このルールを「劫」という。 このルールがないと、だいじな局面で将棋の千日手のように戦線が膠着してしまう。つまり無限にゲームが続いて終らなくなるわけであるが、実はこの「劫」とは、サンスクリット語のkalpa音訳した<劫波カルパ>から来ていて、「無数に多い」という意味がある。これについてやはり仏典に、つぎのようなたとえがあるのでご紹介しよう。 古代インドの距離をはかる単位に<由旬(ゆじゅん)>というのがある。牛車で一日の行程(約14.4キロ/7キロという説もある)をいうのだが、一辺の長さが一由旬の立方体をした城砦にけし粒を満たして、百年に一粒ずつ取りだしたところ、全部取りつくしても「劫」が終らなかった、というのである。 よく疲れ果てたときなど、面倒くさくて気が進まないことを「億劫(おっくう)」だというが、億劫とは、「一億回の劫」のことだから、これは確かに面倒にちがいない。 劫については、また一辺が一由旬の巨大な石を有年に一度、白髭あるいは天女の衣で払い、石が磨りへってなくなっても劫は終らないともいわれている。古代人が無限を考える場合、自然数的でしかも加法的なのは何とも興味ぶかい。 |
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| 落語にも「劫」がでてくる『寿限無』という話がある。 「寿限無寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行未、雲行末、風来末、食う寝るところに住むところ、やぶら柑子にぶら柑子、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーワンダイ、グーリンダイのボンポコナのボンポコピーの長久命の長助」 という名前が出てくるといえば思いだされるだろう。これは健やかに育って長命であるようにと、横丁のご隠居につけてもらった名前であるが、このご隠居にはちょっと学があった。「五劫」とは四劫の一つ上で、それがすりきれた後までということである。四劫というのは、仏教で、人類が生れた時代(成劫)、人類が生きる時代(住劫)、世界が破滅する時代(壌劫)、すべてが破滅する空虚の時代(空劫)をさしている。これは世界の盛衰を説いたもので、現代の天文学によると、三〇億年後に太陽は巨星化し、地球はその高熱で燃えつきるだろうという。全宇宙の中のひとつ太陽系がなくなってもすべてが破滅するわけではないから、太陽の寿命が終わる時代は、「壌劫」なのであろうか。 話はそれるが、海の砂利や魚も多いもののたとえで、海水や風雲も永劫のかなたに流れつづける代表である。一方、薮柑子の実は雪にも負けず青々と育つ。さらに、グーワンダイとシュークンガンというのは、古代インドの北方にあったという仮想国パイポの国王と王妃の名前で、長寿で知られ、しかもその子ボンポコナとボンポコピーも聖人として長命を保ったという。というわけで、『寿限無』という落語は長くつづくもののがさらに連なった名前である。 仏教では、宇宙を金輪際(こんりんざい)から有頂天までと説いている。金輪際とはどういう意味なのか。今日、私たちは「金輪際いいません」あるいは「金輪際いたしません」などと、否定を強調する「絶対に」「決して」などの意味に使っている。 ところが、仏教でいう「金輪際」とは、金輪と水輪の境目のことである。いわば人間は金輪の上に住んでいるとされ、その金輪の際(はて)が地下の際(はて)であるというところから、「極限」という意味をもつようになっているのである。 |
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| この仏教の宇宙観を、もう少し詳しく説明してみよう。 その宇宙には、虚空のなかに風輪という円筒形のものが浮んでいると考えられている。風輪の大きさは高さが160万由旬(前にも説明したように一由旬は約14.4キロ) で、周囲は<阿僧祓>つまり無限であるという。 この風輪の上に直径120万3450由旬、高さ32万由旬の円筒形の層があり、これが〃金輪〃である。すなわち直径約1700万キロである。 さて、私たち人類はそれのどのあたりにいるのかというと、金輪のまんなかに須弥山しゆみせんという山があり、それをとりまいて七つの海と八つの山、さらにその外側に幅が32万2000由旬、深さが4万由旬の大海があって、その中央に<センブ州>という大陸がある。この大陸が私たちのいる世界だというのである。 すなわち、人間は金輪の上に住んでいるということになり、そのいちばん下が金輪際(こんりんざい)なのである。 それでは有頂天(うちょうてん)とは何だろうか。私たちはよく、自分なり誰かなりが物事に熱中して他のことをかえりみず、天にも昇るような気持のときや、得意の絶頂にあるようなときにこの言葉を使うが、仏教では、最高の天を有頂天という。 天とは神を意味し、また同時に神の住む高いところのことである。この天には、欲界、色界、無色界という三つの世界があって、これを〔三界〕という。 天の欲界は、六欲天(りくよくてん)といい、 地上四万由旬のところに四天王天、 さらにその4万由旬上に三十三天(刀利天)、 さらに8万由旬上に夜摩天(やまてん)、 その16万由旬上に兜率天(とそつてん)、 その32万由旬上に楽変化天、 その64万由旬上に他化自在天(たけじざいてん)がある。 これら六つの天は生死流転の迷いの世界で、とくに淫欲、食欲をもつものの住むところとされている。 天の色界は、禅(ディアーナ)をおこない、欲望を超越して形だけが存在して光明を食べるものの住むところで、これが十七天ある。 梵衆天は、他化自在天から128万由旬上に、 梵輔天は、さらにその上方256万由旬のところに、 大梵天は512万由旬、 少光天は1024万由旬、 無量光天は2048八万由旬、 極光浄天は4096万由旬、 少浄天は8192万由旬、 無量浄天は1億6384万由旬、 遍浄天は3億2768万由旬、 無雲天は6億5536万由旬、 福生天は13億1072万由旬、 広果天は26億2144万由旬、 無煩天は52億4288万由旬、 無熱天は104億8576万由旬、 善現天は209億7152万由旬、 書見天は419億4304万由旬、 色究東天は838億8608万由旬上に、というように重なって存在しているという。天の無色界は定(サマディ)をおこなう形のない精神のみの世界で、そこにはもう空間もなくただ存在する世界といわれるが、この点はどうもはっきりしない。ともあれ、無色界には、四天があるとされている。空無辺処天は、心が空の世界に入るところで、空という私たちの思考の対象があるところだといわれている。 識無辺処天は、心だけが存在する世界で、いっさいの思考の対象がないところである。しかし、「いっさいの思考対象がない」という思考対象がある。 無処有処天むしようしよてんは、「‥‥」という思考さえもたない何にも所有しない世界である。しかし「何にも所有しない」という思考をもっている。 非想非非想天ひそうひひそうてんは、「思わない」そして「思わないということをも思わない」という絶対の瞑想の境地をいう。これが最高の天で、この非想非非想天が″有頂天″なのである。 金輪際から有頂天までを現代流にちょっと計算してみよう。 金輪際から地上まで32万由旬ある。地上最初の天が四万由旬の四天王天で、色界の最上天まで二十三天が、最初の項が四万由旬、公比が2の等比数列の形で上へ上へと重なっているから、 すなわち地上から色界の色究東天まで1677億7216万由旬あることになる。 さらに、有頂天までその割で計算すると、金輪際から有頂天までは、2兆6843億5488万由旬あることになり、これが仏教による宇宙の大きさであるといえる。 1由旬14.4キロとして、 14.4キロ×2兆6843億5488万由旬 1光年9兆4600億キロとすると、4.08光年の大きさとなる。有頂天は地球に最も近い星ケンタウルス座のプロクシマ付近にあたる。 |
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| 日本の数学の展開 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 1 和算とは | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 日本の数学は奈良時代の少し前から室町時代まではすべて中国から伝わったものです。幕末から 明治にかけてはヨーロッパの数学が伝わりました。 そこで,ヨーロッパから輸入された数学を『洋算(ようざん)』と呼ぶようになりました。これに 対して,江戸時代に関孝和らの努力によりヨーロッパの数学に匹敵するまでに発達した「日本独自 の数学」を『和算(わざん)』と呼んでいます。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 2 和算以前 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| (1) 大和時代 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 日本の数学は紀元前200年頃の中国の「暦算書・天文書」である『周髀算経』と「生活に密着した計 算技術を集大成」した『九章算術』(100年頃)やその計算に必要な「九九」および「?(算)」あるいは「籌」 と呼ばれる棒などが百済の易暦博士等によって伝えられたと考えられています。 奈良時代になると大学寮の制度がしかれ,算博士2人・算生30人を置き,次の九つの中国の算経を 学ぶことになっていました。 周髀算経・孫子算経・五曹算経・九章算術・海島算経・三開重差・九司算経・六章算経・綴術 |
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| (2) 平安時代 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 平安時代になると実用計算が主となり,高級な数学はすたれてしまいました。そして貴族の間には
「かけ算九九」を用いた国語表記が用いられました。 我が国,最古の歌集である「万葉集」(759年頃)には「数字」や「九九」を利用した読み方がいくつかあります。 例えば,「二二」を「し」,「十六」を「しし」,「八十一」を「くく」,「二五」を「とを」などとしています。 『万葉集』の「巻十一」には 若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在国 読み『若草の,新手枕を,巻き初めて,夜をや隔てむ,憎く(にくく)あらなくに』 訳 『若草のような妻とはじめて手枕をかわしそめて,何で一夜でも間を置くことができようか。可愛くてしかたがないのに。』 とあり,「八十一」を「くく」と読んでいます。他には『二五』を「とう」や,『十六』を「しし」と読ませたり,『三五月』を「望月(十五夜)」と読ませるような使い方をしているのもあります。 中国の唐の時代の元和五年(810)の八月十五夜に詩人白居易の読んだ詩に『三五夜新月色』という句があり,殷の時代の甲骨文の詩の中にも『明月三五』と刻まれたものが出土しています。 「三五夜」は「十五夜」のことですから『万葉集』の「三五月」という表現の仕方は中国から伝わってきた ものと思われます。 このように「九九」は平安貴族のステータスシンボルとして扱われてきました。そこで,無教養な貴 族に対しては「是 二五ヲ知リテ十ヲ知ラザル巳」という『史記』に記された名句が使われたぐらいです。 |
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| (3) 室町時代 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 室町時代初期に書かれた『後妙華寺令聞書』の「職員令」大学寮の項目に 算博士二人 算ヲク事ヲ教フル者也。
算生 三十人 算術ヲ算博士ニ習フ者也。算ト云ハ九九ヲヨブ事也。 と記載されていることから,当時の貴族は「六芸(礼・楽・射・御・書・数)の一つである九九と算木を
使っての簡単な計算」程度の教養で充分であったと思われます。 また,室町時代の作といわれる「三十二番職人歌合」(筆者不詳)の六番『算をき』には 『おくさんのそうしょうしたるはなのとき風をばいれぬ五形なりけり』(置く算の相生したる花の時,風をば入れぬ五形なりけり) 『算道の指南,五形の相尅相生を本躰にて,一切の吉凶を判定する事なれば,花の時の相生に,風をバいれぬ五形と勘あげめる,いと興あり。』 とありますから,庶民の間では「占い用の算木」を使っての八卦や生まれてくる子供の性別・病人の生 死などを占う「占い」を職業とする「占い師」が盛んに「算置」(算所)を設け,生計を立てるような時代で あったと思われます。算置の「算を置く」とは「算木を並べる」という意味です。 |
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| (4)安土・桃山時代 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| この時代は商工業が盛んになり,実用的な計算が一般民衆に必要となってくると,速く正確に計算
ができる計算道具が必要になってきました。このような時代に中国人が商取り引きに使っている「ソロバン」を見ていた日本人が,その便利さに驚嘆し,使用法を教わり,日本に持ち込み,そして見よう見真似で試行錯誤しながら作ったものと考えられます。 「ソロバン」は今までの算木による計算よりもずっと簡単で,持ち運びに便利です。また「ソロバン 用割り算九九」である「八算」を「割り声」(ソロバンの珠の動きに沿った暗唱用の唱え方で「二一天作五」 からはじまり「九進一十」で終わる八種類の割り算九九)を唱えて使うと機械的に計算ができるため, 面倒な割算の商がいくらになるかを考えずにすむことから一般民衆に受け入れられ,急速に全国的に 広まりました。 当時のソロバンは五珠が二つ,一珠が五つの中国式ソロバンの他に,五珠が一つ,一珠が五つのソロ バンも使われていました。 日本にソロバンが渡来した時期は明確ではありませんが安土・桃山時代(室町時代末期)の元亀 ・天正時代(1570〜1592)の頃と考えられています。 ソロバンの語源については諸説,色々ありますが中国語の「算盤」の発音<スワンパン>から<ソ ルバン>となり「ソロバン」と変化したものと考えられています。 |
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| 3 和 算 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| (1)江戸初期 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ソロバンが一般庶民に普及するとそれに伴う計算方法や練習問題を記した書物が必要になってきます。
すると,こうした一般庶民の需要に応えるべくテキストが刊行されるようになってきました。 現存する日本最古の和算書で1600年頃(江戸初頭)に刊行された著者及び刊年不明の『算用記』(龍谷 大学所蔵)が書かれたのもこうした理由からです。ソロバンがかなり一般庶民に普及し,より高度な計 算を必要としてきたことの証でしょう。 1622年(元和八年)には百川治兵衛の「諸勘分物」(巻物)があらわれました。また,毛利勘兵衛重能は同年に『割算書』を出版しました。その結果,優秀な弟子が集るようになりました。 代表的な弟子は高原吉種と『塵劫記』の著者である吉田光由,『竪亥録』の著者で磐城平藩郡奉行を務めた今村知商です。今村知商は常陸国那賀湊から涸沼川〜利根川に至る運送路を調査し,巴川の中流,下吉影村から川口の串挽までの船通路を開鑿しています。 今村知商の弟子平賀保秀は五百石で徳川光國に仕え,水利事業(笠原水道)や暦算の研究に取り組んで います。また平賀保秀の弟子,村松茂清は赤穂の浅野家に仕えたため,養子の秀直とその子高直は吉良 家討入りに参加しました。 高原吉種の弟子,磯村吉徳は丹羽家(二本松)に作事奉行として仕え,安達太郎山より水を引き水道を 作ったため二本松の人々は多大な恩恵をうけました。 |
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| ┌─ 内藤治兵衛 ├─ 荒木村英(1640〜1718)…後に関孝和の弟子となる ┌─ 高原吉種─┤ ┌─村瀬義益 │ ├─ 磯村吉徳(?〜1710)─┤ │ │ └─佐藤五郎兵衞(神原一学覚嘉) │ └─ 関孝和(1640?〜1708)─ 建部賢弘─ 中根元圭 │ ┌─佐藤正興 毛利重能─┤ ┌─ 隅田江雲─┤ │ │ └─池田昌意 ├─ 今村知商 ─┼─ 安藤有益 (1624〜1708) │ (1591?〜1668)│ │ └─ 平賀保秀(?〜1683)── 村松茂清(?〜1695) └─ 吉田光由(1598〜1672)─ 横川玄悦─ 星野実先宣(1628〜1699) |
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| (2)江戸時代のベストセラー『塵劫記』 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 寛永四年(1627)には毛利重能の弟子吉田光由(1598〜1672)が29才の時に『塵劫記』を出版しました。
吉田光由は山城国(京都府)嵯峨の吉田宗運の子として生まれ,祖父の従弟が大富豪の角倉了以です。
角倉家は大堰川・富士川・高瀬川などの河川土木工事を請け負ったり,中国との貿易で大商人として
君臨していました。 『塵劫記』の内容は, 第一巻:そろばんでの基本的な計算に必要な事柄を図入りで詳しく説明している 第二巻:金・銀・銭の三貨の換算や貸借の利息計算および米・布・雑貨の売買などの商業計算 第三・四巻:土木・建築に関する計算や面積・体積の求め方など役人が必要とする計算 です。 また,算術遊戯「継子立て」や日常生活に密着した問題を挿し絵として載せたり,各巻の扉に は室町時代の貴族達が娯楽の一つにしていた文字あてゲーム「目付字」(三種類)を取り入れるなど親 しみやすいように工夫してあります。そのため『塵劫記』は商人や職人から武士まではば広く人気 を得ることができました。 吉田光由は寛永十八年(1641)に『新篇塵劫記』を出版しました。この本には「遺題」または「好み」と もいわれている「解答をつけない問題」を載せ,「読者にその解答を求める」という新しい試みがなさ れました。解答を得た者はこれを書物に著し,また新たな遺題を載せるということを繰り返しおこ ないました。このようにして,次々に伝えていく遺題は『和算』の進歩に大きな役割を果たしまし た。 和算の特徴はこの「遺題継承」と次に述べる「算額」です。こうした試みも人気を得,『塵劫記』 といえば「そろばんの書」と言われるぐらいの大ベストセラーになりました。『塵劫記』は何回も版 を重ね,明治時代初頭まで出版されています。 この間,約二百五十年間に『〜塵劫記』とか『塵劫〜』といった四百種類もの書物が出版された ことからも『塵劫記』の人気がいかに凄かったかがわかります。 |
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| (3)算額奉納の風習 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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四代将軍徳川家綱の時代(1670年頃)になると,かなり高度な数学の問題を木製の額に書き,こ れを絵馬にして神社仏閣に奉納する風習がはじまったといわれています。この風習は文化・文政 年間(1804〜1830)に最も盛んに行われています。 算額奉納の理由は @難しい問題が解けたことを神仏に感謝する A二 自分の研究の成果を誇示する B三 自分達の流派を宣伝する C四 何かを記念して奉納する 例えば地租改正を記念して測量の額などを奉納したり,師の米寿を記念しての奉納や男子誕生を祝しての奉納などの四種類に分類できます。 現在,算額は全国におよそ900面ほど現存しています。 |
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| (4)関孝和の業績 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 関孝和は1640年頃に生まれ1708年10月24日に病死しました。出生地については上州藤岡(群馬県)
と江戸小石川という二つの説があります。 関孝和はいつ頃,誰に数学を教わったのか,などの伝記はほとんど判りませんが,お墓は父の屋敷
に近い牛込弁天町の浄輪寺(東京都新宿区牛込)にあります 関孝和は中国の算書『算学啓蒙』,『楊輝算法』や和算書『算法闕疑抄』,『算爼』,『古今算 法記』など国内外の算書を研究し,『古今算法記』の遺題十五問の解法を載せた『発微算法』を1674 年に出版しました。関孝和自身が出版した書物はこの一冊だけです。 関孝和の業績は『発微算法』,『発微算法演段諺解』,『括要算法』などから知ることができます。 関孝和の業績は,それまで中国からの移入数学であった日本の数学を『日本独自の数学』にまで 高めたことです。この事実から関孝和以降の数学を『和算』と呼ぶ研究者が多くいます。 |
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| 4 和算から洋算へ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| (1)ヨーロッパ文明との接触 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| キリスト教の東洋伝道のためにインドからマラッカなどを遍歴していたスペイン生まれのイエズ ス会士フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)を鹿児島生まれの弥次郎がマラッカから鹿児島に案内 してきたのは天文十八年(1549)のことです。 これは鉄砲が鹿児島の種子島に伝来してから6年後のことです。 ヨーロッパから帆船でアフリカを迂回してインド・日本へ航海するには天文学と天体観測のため の数学の知識が必要であり,ポルトガル人宣教師達はそれらの知識を身につけていました。 そして宣教師は地動説による太陽と地球・日食・惑星などの天文学の知識を日本人に伝えて,日本 人の知識欲を満たし,キリスト教の布教に役立てていました。また彼らは日本についてよく学び, 慶長十三年(1608)に『日本語大文典』を完成させ,さらに,それを簡潔にまとめた『日本語小文典』 を元和六年(1620)にマカオの学院で印刷しました。 中国からは漢訳されたヨーロッパの数学書などが日本に輸入されました。 1607年 幾何原本(ユークリッド原論1〜6) 1853年 数学啓蒙(算術書) 1857年 幾何原本(ユークリッド原論7〜15) 1859年 代数学(ド・モルガンの初等代数) 同年 代微積拾級(ルーミスの解析幾何・微積分) 1873年 代数術 1874年 微積溯源 これらの漢訳数学書には加・減・乗・除,等号,根号は洋書の記号をそのまま「┴,┬,×,÷,=,√」 が用いられました。数字は一,二,三などの中国数字です。数式は横書きで,文章は縦書きとなって います。そして,「∫2xdx=x2 」を「禾二天彳天=天二 」のように積分記号を「禾」,微分記号を「彳」, アルファベットのxを漢字「天」で表し,代数・幾何・微分・積分・函数(関数)などの数学用語がつくられ, 日本に紹介されました。今日用いられている多くの数学用語はこれらの漢訳数学書からのものです。 日本は鎖国政策により海外との文化交流は途絶えていましたが1853年(嘉永六年)に米国のペリー が安政五年(1858)に浦賀に来航して,ようやく210年間の眠りから目を醒ましました。 |
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| (2)長崎海軍伝習所 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 幕府は海軍を創設するためにオランダに協力を要請し,安政二年(1855)12月1日長崎に海軍伝習 所を開設しました。内容は航海術・運用術・砲術・天測・測量術・造船学・機関学など海軍士官と して必要な技術・知識が教授されました。伝習生には勝麟太郎・塚本明毅・小野友五郎・赤松則良・ 柳楢悦などがいました。 数学の学習について,オランダ人教官は次のように述べています。 算術に通じた学生はやがて代数の加減乗除を学んだ。彼らはすでに対数の理論および実際を学んだ者さえいる。代数を学んだ学生は幾何学をも学び,1856年10月には測量術および三角術の内容にまで進んだ。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| (3)幕府派遣オランダ留学生 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 1862年,幕府は近代的海軍の創設と欧米の近代国家と同等の国家建設を目的として15名の青年を オランダに留学生として派遣しました。この派遣は造船学・軍事技術をはじめとして経済・法律・ 医学などのほかに鍛冶・鋳物・機械職人などの職人技術の修得を含めた幅広いヨーロッパ文化の吸 収を目的としていました。長崎海軍伝習生の一人赤松則良は,この留学にも選ばれてオランダに派 遣され,帰国後の明治元年(1868)に徳川家の沼津兵学校の数学担当の教授となり,数学の教科書を 著し,数学教育の分野でも貢献しました。その後,横須賀海軍造船所長となり軍艦を設計しました。 陸軍ではフランス軍制を学び,フランスの数学が入ってきました。幕府の開成所でも万延四年(1863) 数学局を設け,神田孝平が洋算を教えました。民間でも近藤真琴が蘭学・洋算・航海術の塾を開き ました。日本でも安政四年(1857)柳河春三が『洋算用法』を刊行,同年花井健嘉が「斜算・籌算」の 書である『西洋速知』を刊行しました。 明治五年(1872)に下等小学校4年・上等小学校4年の計8年の学制がひかれ,教科書として『小学 教則』は塚本明毅の『筆算訓蒙』と吉田庸徳の『洋算早学』を示しましたが,翌6年(1873)文部省 は『小学算術書』を出版しました。内容はアメリカのコールバン流の書の翻案(従来の作品のすじ をいれかえる)で,府県でおのおのが出版し,教科書として採用しました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| (4)沼津兵学校 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 徳川家は一藩主として静岡に移り,明治元年10月に静岡学問所を設立し同年12月に沼津兵学校を 設立しましたが明治五年(1872)5月に沼津兵学校を閉校しました。 陸・海軍の将校を養成する目的で設立された沼津兵学校はイギリス・フランスの外国語,漢文,世 界地理,日本史,世界史,経済,図画,物理,天文などの幅広い教養科目を修めました。 数学の指導は長崎海軍伝習所の出身者,オランダに留学した人々により行われ,沼津兵学校の生徒 は洋算の数学に長じ,巧みなる者として世間に知られました。この沼津兵学校出身者が明治初期の 日本の数学教育を支え,翻訳・著作でも活躍しました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| (5)明治初期の数学 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 明治維新で中断した技術伝習の学校は明治3年に再開され,新しい技術伝習学校を黌舎と改称しま した。そこでの技術教育はフランス本国の理工科大学の教育内容と同じであり,フランスの理工教 育を欧米が模範として見習っている優れた教育制度です。これを当時の日本にそのまま持ち込んだものです。そこではフランスの理工技術教育に習って数学の指導が徹底して行われ,初等代数学247頁,高等代数学230頁,方程式論141頁,解析幾何学366頁,解析学481頁,画法幾何学186頁,初等幾何学225頁 などのノート類が残されています。これらはフランス人により講義された数学を日本人青年が羽根 ペンを用いて達者なフランス語で書き残したものです。 フランス人ウェルニーの指揮で造られた軍艦「清輝」(スクリュー推進装置付木造帆船897トン)は 明治8年(1875)に竣工し,日本人の設計した軍艦として,明治11年(1878)に英国に向けて出航し, 翌12年にロンドンから無事帰着しました。 国家の最高機密であった造船工学をはじめとして科学技術書は西洋数学によって書かれているこ とから「洋算」が主流となり,「和算」は明治初期に学校教育からはずされ滅亡の一途をたどりました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||